白石春樹翁
先般 月刊自由民主から「つれづれに想う」コーナーへの寄稿を依頼され、元愛媛県知事 白石春樹翁についての思い出話を書き綴ってみました。
今月号(5月)に掲載されていますが、折角ですのでこのプログで改めて紹介します。
ご批評をいただければ幸甚です。
『中央政界においては、大物政治家と称される人の名前を多数挙げることができ、本誌でも「シリーズ・忘れがたき政治家」で紹介されている。
実は地方においても、傑物と呼ばれ、故郷を代表するような偉大な政治家が数多く輩出されている。
ここでは、私が昭和58年4月に愛媛県議会議員選挙で初当選した時、愛媛県知事として四期目のスタートをきった白石春樹翁の思い出に浸ってみようと思う。
白石春樹翁は、愛媛県議会議員を6期勤められた後、昭和46年愛媛県知事に初当選され、4期16年に渡り地方政界の首領として中央政界にもその名を轟かせた大物地方政治家である。
別名、白石天皇と呼ばれ、保守王国愛媛の基盤を築いた人でもある。
私が初当選したのは28歳の時。当時未熟な私を優しくまた厳しく指導していただいたのではあるが、「あめとムチ」をもって時に太陽の如く人を包み込み、時にカミソリの如く斬り捨てることによって歴史を創った人であった。
そのエピソードの一部を紹介しよう。
「県教組の教員が革新勢力のために凄まじい選挙運動を展開し、現場の教育に熱心でない。マナーに欠け服装も無茶苦茶ですわね。県教組対策をしなければ大変なことになるぞよ。」
白石春樹翁が自民党愛媛県連幹部であった頃の言葉であるが、当時(昭和30年代)真正面から日教組対策に乗り出したのは、恐らく白石春樹翁が初めてではなかったかと思う。
その手法は、教員に勤務評定を導入して学校管理の面で行政の目を教育現場に浸透させ、その勤務評定の尺度として学力テストの結果を用いるというものであった。その結果、全国的に注目された勤評闘争が始まった。
その手法には是非もあろうが、愛媛県においては日教組の組織率が大幅に低下し、愛教研という新しい組織への教員の加入率が9割近くなり教育の正常化を進めることができたのである。
「田中角栄元首相に、日本の名誉のためにも無罪判決が下りるよう願っている。私は田中角栄さんを尊敬している。」
この言葉は昭和58年9月定例県議会の本会議場で、野党県議の質問に答える形で、知事として発せられた。
当時、刑事被告人である立場の人に対して、本会議場で堂々とこのように言い放った時の白石春樹翁に対して、様々な評価が寄せられたことは言うまでもない。
しかし窮地に追い込まれた人に対し、報恩の心をもって堂々と筋を通す人の言葉の重みを感じずにはいられない。
荒波の中、沈みかけた船の船底から、ねずみが一匹一匹逃げていくが如き、昨今の政治家の行動への警鐘とすべきではないだろうか。
「山本君、奥さんを大切にしなければいけんぞ。もしも浮気をしそうになった時は、相手の女性を一生面倒見る覚悟があるかどうか自分自身に問いかけなさい。」
私が結婚した時の翁の言葉である。丁度その頃、白石翁が妾宅の前で写真週刊誌にフラッシュをたかれ、その週刊誌が買い占められるなどの騒動が起きた渦中であった。
「もっとも、わしのように一生面倒を見ても世間様からは褒められることではないがのお。」
その他にも、同郷の幼馴染みであり、四国の大将と称された再建王坪内寿夫翁との激しい確執や、その坪内翁がオーナーであった日刊新愛媛への取材拒否騒動など、そのエピソードは枚挙にいとまがない。
大物政治家とは、中央であろうが地方であろうが、政治家である前に人間として大きな抱擁力を持ち、冷静な判断力と的確な将来展望を有する人間味溢れる大人(たいじん)であると改めて思うものである。
残念ながら、最近、そのような人にお目にかかることが極めて少なくなったように思う。』
* 白石春樹元県知事の石の字は正式には、石の口の上に「、」が入りますが、ここでは表記が出来ないため、「石」の字を使わせていただいております。ご了承ください。

























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